私の音楽ヒストリー
~つれづれなるままに~
私の音楽ヒストリー②
スランプの行く末
6.練習の重圧
自分はピアノが好きだと自負しつつも、毎日ノルマを果たすように取り組まねばならない練習は、小学生の私にとって大きな重圧でした。
学校から帰って来たら、他の子はランドセルを放り出してすぐ遊びに行けるのに、私はピアノの練習をしなければ遊びに行かせてもらえなかったのです。
特に気が重かったのは、新しい曲を初めて両手で合わせる時でした。
右手と左手の指を、楽譜通りの異なる動きで弾かなければならない、その難しさがとても憂鬱で、「あぁ、今から練習しなきゃ・・・」という、どよ~んとした心の重さは今もって忘れられません。
月に一度、学研の雑誌「科学と学習」が届く日だけは、母が練習を免除してくれたので大層嬉しかったものです。
なかなか練習に取りかからない私に、母は
「練習しなさい!嫌なら止めなさい」
と言い、しょっちゅう親子ゲンカになりました。
7.スランプ
昭和のピアノレッスンと言えば、「バイエル」、「ハノン」、「ブルグミュラー」、「チェルニー」、「ソナチネ」などが定番だったと思います。
今は、子ども向けの教本が豊富に出版されていますが、昔は楽譜の種類が少ない上、指導法も、巷の先生が欧米の本場の演奏法など知るよしもなく、手探り状態だったのは想像に難くありません。
楽譜通りに指を動かして間違えずに弾ければ丸、というレッスンでした。
私は、学年が上がるにつれ次第に楽譜の進み方が鈍化していきました。
何故なら、なかなか「ソナチネ」が卒業できなかったからです。
「ナオちゃんは手が小さいから」というのが、その理由でした。
◎発表会に弾いた曲
7才『つむぎ歌/エルメンライヒ』
8才『ソナチネ作品55-1/クーラウ』
9才『つばめ/ブルクミュラー』『練習曲61番変ホ長調/チェルニーリトルピアニスト』より
10才『ソナチネ作品36-4/クレメンティ』
11才『ソナチネ作品38-1/クレメンティ』
小1で「ソナチネアルバム1」を弾き始めたのに、小5になってもまだ「ソナチネアルバム2」を卒業できず、「ソナタ」に入れませんでした。
8.ついに止めてしまう
「ナオちゃんは手が小さいから、、、」と、どれほど言われ続けたことでしょう。
小5のある日、「ソナチネアルバム2」に入っていた、ベートーヴェンの『6つの変奏曲』が弾きたいと申し出たら、「第6変奏のオクターブが弾けないから無理」と言われてしまい、第5変奏までしか弾かせてもらえませんでした。
手が小さいことを理由に、ずっと同じレベルの曲ばかり弾いているレッスンに段々嫌気がさし、私は、とうとうレッスンを止めてしまいました。
その時私は「あぁ、せいせいした!これで毎日練習しなくてすむ!!」
と思い、
母は母で、「これで毎日、練習しなさい!と言わなくてすむ」
と、肩の荷を下ろしたのです。
そして、小6の1年間、練習の重圧から逃れて羽を伸ばした私は、せいせいと遊びまくりました。
でも、レッスンは止めたものの、ピアノの遊び弾きは好きだったので、相変わらずアニメの主題歌などをじゃかじゃか弾いていたのですが。
9.後年になってから分かったこと
ピアノを一時止めたことは、私にとって大きな出来事だったので、その後何度も振り返りました。
どうして私は、あんなに長く「ソナチネ」を弾いていたのだろう?
後になって知ったことですが、当時教室の中で突出して進度が速かった私に対する周囲の親達からのやっかみがあり、先生に対する風当たりが強かったのだそうです。
「ナオちゃんだけどうして楽譜が進んでいるのですか?」という。
何故、自分が「ソナチネ」で足踏みをしなければならなかったのか?
手が小さくても弾けるように工夫することはできなかったのか?
と、この道に進んだからこそ思います。
でも当時は、先生の仰ることはその通りだと信じていましたから、自分は手が小さいので大人の楽譜はまだ弾けないのだと素直に思っていました。
結局私は、中1で再開するまで丸1年以上レッスンを休みました。
しかし、それはそれで必要な時間だったのだとも思っています。
何より自分自身が伸び伸びと遊んで気が晴れましたし、その結果「もう一度教室に通ってピアノを習いたい!」と心から思えるようになったからです。
そして、再開してからは、練習も親に言われず進んでやるようになったのでした。
ポルカの会 小髙ピアノ教室
小髙 菜穂(おだか なお)