私の音楽ヒストリー
~つれづれなるままに~
私の音楽ヒストリー①
幼児期~小学生
1.ヤマハ音楽教室
私は5才の時に「ヤマハ音楽教室」に入りました。
当時住んでいた千葉県習志野市実籾町の自宅から隣の八千代市にある教室まで、母に連れられ京成電鉄の電車に乗って通いました。
その頃は「ヤマハ音楽教室の歌」というのがあって、”ヤマハ、ヤマハ~のおんがくきょ~うしつ~”と歌うのが好きでした。
教室は保育園の一室を借りて行われており、オルガンがずらりと並んでいました。
レッスンの内容は何一つ覚えていませんが、母が言うには「何をやっても良くできた」のだそうです。
ある日、突然、一人ずつ順番にオルガンを弾くことになって、私は『ピアノのおけいこ』(ドミドミソドドド、レレレレ、ミミミミ~)という曲を弾きました。そうしたら、一生懸命叩いて弾いたせいか私だけとても音が大きかったらしく、みんなが笑いました。
一生懸命弾いたのに何で笑われたんだろう?今でも疑問です。
先生が替わって生徒が減り、そこの音楽教室には、10ヶ月位しか通いませんでした。
しかし、その、ほとんど記憶が無い5才頃の音感教育が、その後の私の音楽人生の土台になったのは間違いありません。
ヤマハさん、ありがとう!
2.初めての個人レッスン
ヤマハを止めて少しした頃、私がオルガンを滅茶苦茶に弾くのを見かねた母は、何事も基礎が大切だから、この子を先生につけなくては!と思ったそうです。多分年長になりたての頃だと思います。
近所の「やげたさん」が、お嬢さんが習っていたピアノの先生を紹介してくれました。
先生は日野孝(ひの たか)という名前のベテランの女の先生で、お宅は実籾の一つ上野寄り、大久保駅の近くでした。
初めて日野先生のお宅に伺った時、ピアノの前に座らされ「何か弾いてごらんなさい」と言われたけれど、緊張感で怖くてたまらなかった私は、何も弾けず、何を聞かれてもろくに答えられず、ただカチコチに固まってうつむいているだけだったのを覚えています。
そんな風にして始まったレッスンでしたが、それから私は日野先生のお宅に長く通うことになったのでした。
3.ちょっと余談~イチゴジャムが嫌いな、ゆりぐみ(年長)のナオちゃん
私は、食が細くおまけに偏食でした。
給食の時間は、誰よりも遅くまでモグモグ食べていて、なかなか食べ終わらず、みんなとっくに片付けが終わって午後の活動が始まってもまだ一人、食べ続けているような困った子でした。
悪名高い、あの脱脂粉乳があった時代です。
コッペパンはパサパサで長くて食べ切れず、伏せたコップの中に食べ残しを隠して、先生に『パンを全部食べたから、おかずは残してもいいですか?』と嘘をついて聞きに行ったりしていました。
一番困ったのは、パンにべったり塗られているイチゴジャムが苦手で、どうしても前歯から奥に入らないことでした。
私が断固としてイチゴジャムのついたパンを食べないことに根負けした保育所の先生は、いつしか私専用にマーガリンを塗ったパンを「ゆりぐみのナオちゃん用」として特別に用意してくれるようになりました。当時としては、アレルギーでもないワガママな子に、相当な特別待遇をしたものだと感心します。
それほど私が強情っぱりだったのですが。
4.「バイエル」に夢中
昭和の半ば、ピアノのおけいこと言えば「バイエル」に決まっており、日野先生のレッスンも「バイエル」で始まりました。
私は、ヤマハへ通ったお陰で、「赤いバイエル(上巻)」の途中から始めて、じきに「黄色いバイエル(下巻)」に進むことができました。
日野先生のレッスンは、指を高く上げてしっかりと弾き、音符や休符の長さ、指使い、強弱記号など楽譜の表記にとても厳格なレッスンでした。
当時は、「表情豊かに弾く」とか「楽しいレッスン」など、今だったら一番大切にするようなことよりも、とにかく楽譜通り正しく弾くのが良い弾き方というご指導でしたが、それはそれできちんと教えて頂いたと思っています。
日野先生は、いかにも明治の女性らしい立ち居振る舞いと威厳があり、言葉使いや服装髪型など、軽はずみに流行を追うようなことがお嫌いでした。
前髪が眉にかかると「ナオちゃん、おでこは出しておきなさい」と注意されたのを覚えています。
私は、年長の頃は伸び盛りで、楽譜がビュンビュン進みました。
それを知った祖母が、アップライトピアノを買ってくれました。
「バイエル」には心惹かれるきれいな曲が沢山あって、ピアノに夢中になりました。
丸をもらった曲をページをめくり返しては手当たり次第にじゃんじゃか弾くのが大好きでした。
そうやって知らず知らず復習していたのが奏功したのか、耳も良くなったようで、聞こえた音を自然にピアノで再現できるようになりました。
保育所で歌う「朝の歌」や「帰りの歌」も、先生が弾くのを覚えてしまい、そっくり真似して同じに弾けたので感心されました。
5.何でも耳コピー
昔はのんきなもので、レッスンは時間指定がなく、曜日しか決まっていませんでした。
自分のレッスン曜日に先生のお宅へ伺い、行った順番にレッスンを受けるのです。
待ち時間に他の子のレッスンが耳に入るので、自然に色んな曲を覚えてしまい、いざ自分が弾く時には譜読みの手間が省けてずいぶん楽でした。
日常ではピアノの曲だけでなく、童謡や、テレビ番組の主題歌、流行歌なども片っ端から耳コピーし、右手のメロディーが分かれば左手も勝手に動いて伴奏が付けられたのが自分でも不思議でした。
小学校2年生の時には、その頃流行ったブルーコメッツの『ブルーシャトー』のメロディーを5線ノートに書いて友だちにあげたり、3年生の頃は自己流で『魔法使いサリーちゃん』『巨人の星』などを弾きまくっていました。
ポルカの会 小髙ピアノ教室
小髙 菜穂(おだか なお)